Friday, October 19, 2018

ディスペンセーショナリズムとは何か(1)

1ディスペンセーショナリズム(ディスペンセーション神学)とは、聖書全体を体系的、組織的に解釈するための神学的枠組みのことである。ディスペンセーショナリズムに対抗する枠組みが、契約神学である。ディスペンセーショナリズムの土台になっているのは、「ディスペンセーション」という概念(神の摂理、神が定めたとされる規則や制度)である。ディスペンセーションという言葉は、英語では「dispensation」、ラテン語では「ディスペンサシオ」、ギリシア語では「オイコノミア」である。

ディスペンセーションを定義すると、「神の計画が進展していく過程において出現する、明確に区分可能な神の経綸」ということになる。通常、ディスペンセーショナリズムでは区分可能な神の経綸(ディスペンセーション)が7つあると考える。

 ディスペンセーショナリズムの3つの特徴とは、以下のものである(チャールズ・ライリー博士)。①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」であるという認識。ディスペンセーショナリズムの特徴を、数回に分けて解説する。

 

Ⅰ.聖書の字義通りの解釈

 ディスペンセーショナリズムは、聖書を一貫して字義通りに解釈する。字義通りの解釈(Literal interpretation)とは、機械的な解釈ではなく、最も自然で、単純な解釈である。もちろん、この解釈法は、聖書の中に出て来る「比喩的表現」を否定するわけではない。比喩は比喩として読むこともまた、字義通りの解釈に含まれる。字義通りの解釈は、特に旧約聖書の預言解釈において重要な役割を果たす。旧約聖書に記されたメシア預言は、イエス・キリストにおいて字義通りに成就した。それゆえ、将来のことに関する預言も、字義通りに成就すると考えるのが最も自然で合理的である。たとえば、黙示録20章に出て来る「千年間」という言葉を、ディスペンセーショナリズムでは文字通りの「千年間」(御国の時代)と解釈する。聖書預言に比喩的解釈を施すのは、非常に危険なことである。なぜなら、比喩的解釈は主観的解釈であり、「聖書は読みたいように読めばよい」という結果に至るからである。

 ディスペンセーショナリズムは、聖書を字義通りに読んだ結果、そこには明確に区分可能な7つのディスペンセーションが啓示されていると主張する。ちなみに、ある意味すべてのクリスチャンはディスペンセーショナリストである。なぜなら、最低2つのディスペンセーション(旧約時代と新約時代)が存在することは認めているからである。ディスペンセーショナリズムという神学体系は、最初から7つのディスペンセーションを想定して、その上に神学的体系を構築しているわけではない。その逆に、聖書を一貫して字義通りに解釈した結果、そこに7つのディスペンセーションが存在すると認識したのである(7つよりも少なく言う人も、多く言う人もいるが、通説は7つである)。

 7つのディスペンセーションとは、以下のようなものである(名称は学者によって微妙に異なるが、どういう名称を採用するかは本質的な問題ではない。重要なのは、明確に区分可能な神の経綸が7つ存在するという事実である)。

 

1.無垢の時代(創1:28~3:8)

 中心人物は、アダムである。人は罪のない状態で創造されたので、「無垢の時代」という。アダムには、善悪の知識の木から取って食べてはならない(創2:17)という命令が与えられたが、彼はその命令に背き、霊的死(神との関係の断絶)を経験した。被造世界は呪われ、アダムとエバはエデンの園から追放された。しかし神は、「女の子孫」である救い主の約束(創3:15)を与え、皮の衣(贖いの型)を用意してくださった。

 

2.良心の時代(創3:9~8:14)

 中心人物は、アダムである。「良心の時代」という名称は、ロマ2:15から出たものである。神が人類を統治する原則は、良心である。しかし人間は、良心の力によっては勝利することができなかった。地上に悪が拡大し、人間の良心は麻痺した(創6:5)。その結果、ノアの洪水による裁きが下った(創7:21~24)。しかし、ノアの家族が救われ、「女の子孫」(メシア)の家系は保存された。

 

3.人間による統治の時代(創8:15~11:32)

 中心人物は、ノアである。「人間による統治の時代」は、ノア契約の条項の一つから付けられた名称である。「人の血を流す者は、人によって、血を流される」(創9:6)。死刑制度は、人間の政府が存在することを前提としている。政府の存在目的は、法秩序の保持である。しかし、この時代は、道徳的、宗教的堕落の時代であった(創11:1~4)。その極みが、バベルの塔事件である。この時代にあっても、真の信仰者は存在した。彼らは、ノア、セム、アブラハムに至る家系の人々である(創11:10~12:3)。この家系から「女の子孫」が出現することになる。

月刊ハーベスト・タイムvol.387より引用

(続く)

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